私について。

 1960年、兵庫県尼崎市七松町にて生まれる。父は積治、母は里子。次男。母は70代でなくなり、父は勝谷医院の50周年を祝ったあと、先年に逝きました。
バレリーナであった母が練習場としていたこともあり(まだ幼児だったのでいずれも伝聞です)西宮市の上甲子園幼稚園から、上甲子園小学校へ。そのあと4年生で尼崎市立七松小学校へ転校しました。
 中学は灘中学校へ。そのまま灘高校。高校1年生の時に、生徒会長。卒業後、大学入試に落ちて、予備校にも行けず、1年の間、自宅浪人して、早稲田大学第一文学部文芸専攻に入学。ここでもまっすぐに卒業できずに、5年いてから卒業です。
 在学中に「早稲田大学少女マンガ研究会」を設立。これは今でも続いています。入学してすぐからライターとして仕事を始めました。フィールドは主に風俗。そのあとはほぼ、大学生活よりも仕事の方が多く『セブンティーン』『ギャルズライフ』『ポップティーン』のほか創刊されたばかりの『フロムエー』の巻頭コラムなどの連載を持つ。コラムニストとして生きていこうと考えたのはこのころだったでしょうか。生活のためです。

 1985年、文藝春秋に入社。当時しのぎを削っていた写真雑誌の世界に参入を試みた『Emma』に配属されました。廃刊に伴い『文藝春秋』を経て『週刊文春』へ。革命からクーデターが打ち続いていたフィリピンに長くコミット。ほぼ通算で1年ほどかの国に。「若王子事件」などを日本国の公安部が驚くほど、抜く。この時から、北朝鮮の国際的な裏社会への関連が、だんだんと理解されて来る。
 国内的には「綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件」で上司の指示によって「実名報道」を。批判の矢面に立たされてテレビなどに出たことが、後にそうした業界での仕事につながってもいきました。
 1996年、文藝春秋を退社。前年の阪神淡路大震災がきっかけで、ひとはいつ死ぬかもわからないのだから、やれることはやりたいと考えました。何のあてもなく、職業安定所に通う日々であったが、書かせてくれるところがあってその道へ。

 著作は数だけは多いですが、私としては『ディアスポラ』が好きです。『文學界』に書いた小説ですが、原発の事故によって日本民族が国土を失ったことを描いたとして、申し訳ないが、かの福島原発の事故のあとに話題に。もっともそこで私が本当に言いたかったのは、国土を失った日本国民が彷徨ってたどり着いた先のキャンプがチベットであったことでした。チベットの人々がどういう扱いを受けているかを、現場を歩いてきた私は知っていたので。いまのようにチベットの実情が知られる前のことです。同じ単行本に収録されている『水のゆくえ』は私がもっとも愛している作品です。

 私は作家で文芸評論家でフランス文学者でもあった平岡篤頼先生の弟子です。「小説を書け」と先生はいつも言ってくださったのに、結局まだ、何もなしていません。だからこそ、わずかな小説という名の子どもたちを私は愛するものです。『平壌で朝食を。』など、朝鮮半島情勢が危うくなっている今だからこそ読んで欲しい。これもチベットと同じく、私が実際に行った北朝鮮がモチーフになっています。
 形式的なことを言うならば。
 日本写真家協会、日本文藝家協会、の会員です。
 私に肩書をつけて下れさるのであれば、作家、コラムニスト。順番にはそれなりのこだわりがあります(笑)。